
昨晩は風も無く、雨も降らずひじょうに穏やかな夜だった。雨に降り込められることも覚悟していたけれど、それは杞憂に終わった。
テントを開け、フライシートをめくって外を見る。――薄明の中に、ぼんやりとガスがたゆたっている。朝4時前。夜明けはまだ少し先。
とりあえず朝飯。その準備をしている間にも、テントを畳んで出発して行く人たちの気配が多い。次の五龍岳までは険路で、かつ距離もある。早発ちは正解。
自分は――鬼門の二日目を迎えている。昨日分の疲労回復に自信が無いので、朝は意図的に遅くする。



再びテントから顔を出すと、だいぶ明るくなっていた。ガスも消えている。東の方向を見ると、空と雲海との間に赤いグラデーション。
テントを出て朝日を待ち受ける。周りには、同じように何人かの人。静かな時間。
輝いて、太陽が昇った。下方の冷池山荘の方向からは日の出のアナウンス放送が聞こえてくる。



テントを片付け始めた人が多くなった。自分は、テントを残して冷池山荘へ向かう。
――朝日の当たる山道はやはり気持ちいい。潅木が切れ、下方に山荘が見えた。赤屋根に日が当たっている。
そこへ向かって下りて行く。散歩に上がってきている人とすれ違う。

山荘前は賑やかであった。何組かのパーティーが出発しようと準備している。
建物のすぐ前にある展望台へ登る。――朝日を正面から受けて、堂々と聳える鹿島槍ヶ岳の姿。緑の山だ。
もちろん、今日はあのてっぺんまで行く。出来れば、曇る前に到達したいものだけど……。


再びテント場へ向かう。空身で登りながら、足の疲労回復具合を確認――ちょっと重い。やっぱり、万全とはいかないようだ。
――テントの数がだいぶ減っていた。取り残される不安が湧いてくるけれど、まあ、あせっても仕方が無い。自分のペースで片付けを始める。


フライの朝露切りに時間がかかる。AM6:40、予定より10分遅れて、ようやく出発。
残念ながら前方の鹿島槍の上空には早くも雲が懸かり始めていた。一方、道はお花畑地帯に。

稜線のやや右を巻いていく道。草原地帯のお花畑。
――花の種類が多い。8月も中旬にかかっていて時期的には遅いはずなのに、サマーバーゲンセールと言わんばかりに百花繚乱。
チングルマの花も新鮮だ。それは、少し前までは雪渓の雪がここにあったことを示している。
今、道に雪は無い。どちらにしろ、しばらく足止めを食らわされる。



お花畑の背後には透き通った青い空、感じるのは清涼な空気――夏山登山の醍醐味だ。山行計画時にはこの地点では雨の中の辛い行軍も予想していただけに、こんなに夏山らしい登山を満喫していいのだろうか、と逆に不安になる。
でも、どうせ直ぐに曇るのだろう。その前に出来るだけこの雰囲気を味わっておこう、と止まり止まり、進む。
正面には布引山の端正な三角形の峰。その向こうの鹿島槍の2つの峰は――雲の中。晴れているうちの山頂到達は、なかなか難しい。


フラットな山道がやや上り始め、潅木帯に入って周囲の展望が閉ざされた。ここでは花の枯れたキヌガサソウなども見られる。


潅木帯を抜けて、ひとつ上の稜線に出る。再び展望が開ける。右手、東側の空は朝方の雲海がそのまま上昇を続けている。西側はまだ雲が入っていないものの、立山・剣には雲がかかった。
そして、目の前には布引山への本格的な登り道が現れた。ホタルブクロの咲く地点。と――



両手が空のことに気付く。LEKIのストックが――無い。
なんてこったい! きっと先のお花畑に忘れてきたのだ! これまで何度かあった、撮影に興じて置き忘れたパターン!
――取りに戻る。30分の時間と、体力を浪費。
そのLEKIにすがって登る布引山の斜面。山頂に到着したのはAM8:11。まさかこの地点で8時を過ぎてしまっているとは予定外……。



そんなわけで、上がってきた東側の雲海が後ろ立山の稜線を越えた。じき、飲み込まれるだろう。
粛々と鹿島槍南峰の南斜面を登っていく。――いきなり出だし遅れたけれど、時間は大丈夫だろうか? 冷池山荘~五竜山荘のコースタイムは、鹿島槍北峰に寄り道込みで9時間半。6時40分に発ったから単純計算で到着は午後4時過ぎ。
――それぐらいで着きたい。30分の手戻り、昼食、休憩などは歩行ペースの自然増分で吸収、ってそんな計画で良いのだろうか?


岩稜にハイマツのアバタの斜面を登って行く。周囲は――ガス。おそらく、今日はもう天候は回復しないだろう。
やや急な斜面を登っていくと山頂が見えた。AM9:07、鹿島槍南峰に到着。


ハイカーが3人ほど。山頂は、赤っぽい岩の小広場。展望が無いので、あまり到達感が無い。
――とは言え、日本百名山の登頂数を3年ぶりに更新したのも事実。これで58座目だ。


13分ほど休憩。そして、北峰へ続く道――吊尾根――に下りる。
大きな石つぶての転がる吊尾根の稜線。遠くから見ると優美な鹿島槍の双耳を繋ぐ尾根だけれど、実際に歩いてみると変哲無い。そもそも、ガスでどちらの峰も見えないのだから、気分的にも盛り上がりようも無い。


ただ、意外に緑は多い。花もところどころで見られる。そして、右手斜面には雪渓――山稜線の僅か数メ-トルほどの位置。少し前まではこの道も雪が覆っていたのだろう。
分岐があって、そこにザックを置いて右の道へ。登っていくと、鹿島槍北峰の山頂。AM9:51。


これで鹿島槍はオシマイだ。引き返す。分岐でザックを回収し、吊尾根を離れて鹿島槍・五龍の縦走路へ。
まずは一方的に下る。――いきなり道が細くなったように思えるのは気のせいだろうか? 急ぎたいところだけれど、この道は決して急いではいけない道。


慎重に、一定のリズムで進んでいく。……と、桟橋とクサリが現れた。
桟橋を渡って大岩を回り込む。岩の狭間の細道を進み、最奥部に架かったハシゴを昇って隘路を脱出。とにかく、背中の大きなザックが邪魔になる際どい道だ。天候が良かったらテンションも上がるのだけれど、今日のところは淡々とクリアしていく。



相変わらずガスが濃くて良く分からないのだけれど、ステゴサウルスの背の剣の根元を辿るような道かも知れない。次には、丸太が一本だけ渡された崖の上の細道。滑落の危険大であることは、何も標示されなくても一目瞭然。
クリアする。やれやれ。さすが難所だ。まだ続くのだろうか? と、思っていたら眼下にうっすらと建物。奥穂から下りて、穂高岳山荘を目にした時のような感じ。ほぼ、真下へ向かっての道となる。ここが一番怖かった。


AM11:09、八峰キレット小屋に到着。ハイカーが数人。ここで昼飯。お湯を沸かして、ラーメンを作って食べる。水は小屋から1リットル¥200×2で購入。


出発はAM11:57――ゆっくりし過ぎたかも知れない。でも、この先も厳しい道が続くので体力充填は必要。
終盤まで体力の持つようなペースで進んでいく。五竜岳荘までのコースタイムは4時間40分――ここまでそれをやや上回るペースで来れているので、到着目標午後4時は堅持。


心配なのは雨――と思っていたら降ってきた。走り雨? いや、結構雨粒が大きい。どちらの方角へ進んでいるか分からないハイカー5、6人、雨具装備中。
追い越して進む。走り雨と判断。ただ、ザックにだけはカバーを掛けている。



やや長い走り雨であった。上着が多少濡れたけれど、身体を冷すにはちょうど良い。気温はさほどでもないものの、湿度が高いので蒸し暑く感じる。
PM0:55に口ノ沢のコルをパスすると縦走路も後半戦。あまり花も見られない岩稜の道を縫うように進む。
それにしても、この縦走路は冷池~鹿島槍の一直線の道とはまるで逆の、細かい方向転換・昇降がやたら多い道だ。地図上に引かれる見かけの距離は信用できないと知る。主観的には1.5倍くらいの長さに感じる……



加えて、縦走2日目午後にスタミナが切れる、という自分の悪い癖が出る。一定の速度で歩き続けることが出来なくなって、歩いては止り、を繰り返すように。元々、日帰り専門ハイカーなので二日目というのは鬼門なのだ……。
AM1:29、やっとのことで北尾根ノ頭に到着。このペースだとテント場到着は午後4時40分。……やっぱり、大分落ちてきてしまったなあ。


ここまで散々上り下りした印象があるのだけれど、高度は2,500m近辺をウロウロしているだけ。五龍岳もここより300mだけ高いだけだけれど、500mぐらいと考えておいた方が良さそう……。


というわけで、急ぎたいのは山々だけれど敢えて9分ほどの休憩を取る。前方の五龍岳は、上方すっぽり雲の中に身を隠し、その姿を見せてくれない。
――出発。次の区間が踏ん張りどころ!

ハシゴを下る。赤抜、だろうか?
その先、上っていくとフラットな、やや穏やかな道。と、前方のガスが流れて、五龍岳が姿を見せた。
今日の目的地が見えて俄然モチベーションが上がる――には疲れ過ぎた。前に見える岩峰を越えて、さらにあの斜面を登って行くのかと考えると、逆に気は沈む……。

雲の底辺が上がったため、東の展望も得られるようになった。見えているのは神城~白馬の人里。山肌に貼り付くグリーンのスキー場もそこかしこに見える。
なので後立山の稜線歩きでは、深山の感覚は得られない。そういう意味では、せいぜい高度1,900mの大峰山脈の方がよほど深山だった。



雨が降ってきた。
今度は本降りだろうか? 先ほどからゴロゴロと雷が鳴っていたし、ふつうに雨かも知れない。ただ、雨脚は強くない。もう少し粘る。
道の厳しさが一段と増した。クサリで岩壁を登っていくような道が多くなる。その岩が濡れているので、足の起き位置は自然に慎重になる。
――なかなか、ペースが維持できない歩きだけれど、こんなコンディションで滑りでもすれば酷い怪我をしかねない。ここは慎重の一手。



しまった。上着がかなり濡れてしまっている。難所が続き、雨具を着るのを忘れていた。
RainTreak Flyght――これを着るのは昨年の春以来。日帰りであれば雨の降るような日は登らないということが出来るのだけど、縦走では無理。
と、二人組のハイカーが現れた。鹿島槍方面へ向かうハイカーは口ノ沢のコルあたりから途絶えていたのに……どこに泊まるのだろう?


午後3時半を回った。雨は相変わらずで、雷鳴は相変わらず遠いものの、稲光も時折見られるようになる。
その時間差は10秒以上あるけれど、雷雲の大きさを考えると次にここに雷が落ちても不思議じゃあない。やっぱり、夏山の行動時間は午後3時までで計算しておくべきなんだろう。分かっちゃいるけど――。


五龍岳最後の斜面に取り付く。ようやく一方的な登り道となったけれど、苦しい道だ。雨への対処で体力は使い果たしている。
休み休み、登っていく。


午後4時を回る。――まだ上がある。たとえ雨に降り込められていなくても、テント場到達4時という目標は無理だったなあと感じる。


そして、ようやく山頂部。まず、安堵を感じる。雷はまだ鳴っている。するすると痩せ尾根を西に進んで、すぐに五龍岳山頂に到着、PM4:20。
日本百名山登頂、59座目。今日で2つカウントを伸ばしたことになる。ただし――すぐに下山を開始。

最後、姿を現した鹿島槍・五龍縦走路の姿を土産に、五龍岳北面の道に入る。
――やや、ガスが晴れて来たようだ。白岳直下に、赤屋根の五竜山荘が建っているのも見える。今日の目的地。


五龍岳の厳しいのは南側だけかと思ったけれど、この北面の道の序盤も岩の多い、手強い道だ。濡れた岩に滑らないよう、そろそろと下らないといけない。


その後、道はようやく穏やかになった。ただ、降り続いた雨で体中が濡れ鼠、防水してあった靴も水没してしまった。
ゆえに遅いペースのまま下っていく。つくづく、雨は苦手だ。


ライチョウが歩く五龍岳北斜面をのんびりと下る。雨はまだ降っているけれど、明るくなってきたような気もする。


PM5:13、ようやく五竜山荘に到着。濡れ鼠の姿を恥ずかしく感じながら、山荘の中に入って受付を済ませる。
外に出ると、雨はほとんど止みかけていた。平らだけれどやや狭い場所にテントを張り始める頃には雨は止み、五龍岳の山体が姿を現そうとしていた。

夕方になったので雲が下がっていったようだ。雷鳴も、もう聞こえない。五龍岳もその姿を見せ、立山の稜線も再び雲の中から現れた。
西の、太陽のある位置の雲が輝いて――そこまで。今日の天候回復はここまでのよう。夕焼けも無く、そのまま、周囲が暗くなっていく。
そして今回の山行のメインである鹿島槍~五龍の縦走は終わった。



テントの中で濡れた衣服を脱ぐ。――もちろん、明日の朝までには乾かないだろう。一方、ザックの中の濡れて困るものはしっかりパッキングしていたので、問題なし。
温かい夕食――カレーライス――を摂って、体を温める。夏場だし、高度がさほどでもないこともあって肌寒さは感じない。
明日は早くも下山だ。と言うことは、自分にとっての夏も終わる。
一抹の寂しさを感じながら眠りに就く。