■乗越分岐→千丈沢乗越


雪原に別れを告げ、土と岩の登山道に取り付く。
――状況はまさに一変。周囲は緑の草の絨毯。東斜面に当たるためか日当たりが良く、雪もあらかた融けた後。確固とした地面がありがたい。背後の、真っ白な世界とはえらい違い。
と、登山者が下りてきた。挨拶を交わしてすれ違う。槍ヶ岳山荘に宿泊して下山中のハイカーだろう。



さらに二人の若者。なんか、えらく軽装だ……人のことは言えないけど。
奥丸山へ続く中崎尾根コースとの分岐を過ぎると、そこまでトラバース気味だった登山道がピークを目指してジグザグに登り始める。窪地では雪溜まりも残っている。周囲はハイマツ帯に。
そして、周囲一面にお花畑が展開。主にミヤマキンバイとハクサンイチゲだ。たまにコイワカガミの群生も見られる。

ただ、花の種類は多くない。チングルマやミヤマキンポウゲ、イワギキョウなど当然のようにあると思われる花がは全然見当たらない。6月だからだろうか?
咲き乱れる花を愛でながらゆっくりと登っていく――いや、嘘だ。ペースが落ちているのは疲労のせい。ここまで6時間近く、高度差1,500mあまり登ってきていて、しかも勾配はきつくなる一方。いくら日帰りスピード登山用の軽装とは言え、身体に堪える。
その代わり、素晴らしい展望が背後に広がっている。6月の北アルプスに登ったのはじつは自身初めて。6月の残雪豊富な北アルプスの山々が、日帰り専門ハイカーの足を留まらせないとしたら、ウソだろう(笑)


持参したカメラがレンズ込み1kgを越える重量であることも負担になってきた。ただ、活用すれば決して負担とは言えない。
――そんなわけで、花を手前に山などの撮影に興じる。ますます時間は過ぎていく。
登るにつれ、風音が強くなってきた。風の通り道のような乗越に向かっているのだから、当然だろう。



午前9時を過ぎた。笠ヶ岳には早くも雲が懸かり始めている。笠に雲が付くと天候は崩れる――ふと、そんな言葉を思い出す。
まあ、空は水色とは言え高層雲の白色が多く交じる水色だ。現実的に考えたら、昼まで持ってくれれば御の字かも知れない。贅沢は言わない、山頂まで持って欲しい……と再び弱気に。
ハイマツの背がずいぶんと低くなり、現われる花の種類も変わった。砂礫の山稜線――西鎌尾根はすぐそこだ。




AM9:07、千丈沢乗越到着。標高は2,720mほど。
ここまで、登るにつれ次第に雄大な光景が広がってきたとは言え、基本同じ構図の展開であった。でも、遂に“山の向こう側の”全く新しい眺望! しかもここ、千丈沢乗越のそれは極上の大パノラマ!
実際、息を呑むほど素晴らしい。思考が暫く、どこかにトリップする。




風がビュウビュウと吹き、羽虫が盛んに飛び回る。今、自分は北アルプスの稜線にいる。
――ここがあの超・有名な西鎌尾根だと思うと感慨深い。日帰りでこの尾根を歩くというのは、ちょっとズルとさえ思う。
西鎌尾根の行く果てに槍ヶ岳の大槍、そして「アルペン踊りをさあ踊りましょ」の小槍が寄り添うように聳えている。目的地がハッキリと見えて、意気が上がらないわけは無い。
でも――あの槍先まで高低差440m残しているんだよな、と冷静に考えると意気は下がった。そう、まだ低山1つ分の登りが必要だ。まあボチボチいきましょ、ってくらいにクールダウン。
そして、西鎌尾根に第一歩目を差し出す。
■千丈沢乗越→槍の肩



西鎌尾根を登る。
右左両方に展望があるのは格段に気持ちよい。加えて、後方の展望もどんどん良くなる。併せて三方の見晴らしだ。
特に、今まで苦心して登り詰めてきた飛騨沢が、遙か高みから眺め下せるのが爽快。ここから見ると、乗越分岐から下は雪量は少ないものの、そこから上は一面の銀世界であることが瞭然だ。


と、言うことは――。
もう少し時期が早かったら分岐あたりも完全に雪で覆われていただろう。さらに、ガスっていたりすると千丈沢乗越に上がる道を探すのは困難、その時点で敗退、ということになったかも知れない。
このルートを歩く上でこの時期を選択出来たのは、やっぱり絶妙だったかも――などという自画自賛もしたくなるというもの。





一歩一歩、足を運び上げる。
歩行時間は6時間半を超える。行動食は適時摂っているものの、さすがにスタミナが切れつつある。短いスパンで休憩を取り、その度に背後の大展望を眺め、西鎌尾根の向こうの山々がどのくらいせり上がってきたかを確認する。
……こっちの方が、確実に高度を稼いでいることが実感できる。前方、一向に大きくなってくれない槍ヶ岳山荘の建物を見るよりも。
道が尾根の右側を巻くようになる。尾根上がゴツゴツしてきて、歩行不適になったからだろう。
勾配自体もかなりきつくなっている。登山道はギザギザと折り返しを付けながら高度を上げていく。ここが胸突き八丁、頑張りどころだと分かちゃいるのだけれど――脚はもう、鉛のように重い。

気温も結構上がってきたような気がする。汗ばむどころではなく、シャツがじっとりと濡れてくる。風は、あまり感じられない。湿度が高くないのが救い。
空を見上げると、太陽の周りに光輪。好天が長く持たないのは、どうやら明らかのようだ。これはもう、現実を直視するしかない。せめて、槍に到着するまでは持ってくれ、と。


気が付くと、周囲から緑がほとんど消えていた。一帯、灰色の砂礫の世界だ。キバナシャクナゲが隠れるように何輪か咲いているのを見掛けたものの、それもすぐに見当たらなくなる。
砂礫帯、我慢の登り。
――足が重い。息が切れる。それでも、一歩一歩、歩を進める。登山とは、そういうもの。


小槍が左に見える。
もちろん、大槍はその横に大きく聳え立っているけれど、ちょっと、遠近感がおかしい。まず、俯角が付き過ぎたせいで穂先の鋭さが感じられない。
ただ、ようやく尾根登りは終わりらしい。この先は平らになっているよう。待望の平地……。

■槍の肩→槍ヶ岳山頂


AM10:03、槍ノ肩到着。
――目に入ってきたのが槍ヶ岳山荘。写真やテレビ番組などでよく見ているので見慣れた感じがするのが不思議だけれど、実際は初見だ。
そして向こう側には槍沢カールが広がっていた。殺生小屋の赤屋根が、思いのほか近くに見える。



反対側の大槍だけれど、とにかく大きい。槍の先端、銀色に輝くハシゴもよく見える。
ただ、あまりにも近すぎてイマイチ、スケール感が掴めない。「往復1時間」と登山地図にはあるけれど、10分くらいで登れてしまいそうな気も。1時間とは大袈裟な、きっと夏の渋滞時の所要時間なのだろう、などと推測するものの……。




大槍に取り付く。最下部に取り付くまでに意外に時間が掛かる。近くに見えたのは、やっぱり錯覚らしい。
左手には小槍。大槍のささくれのような形をしている。脇にはところどころミヤマキンバイが咲いて、荒涼とした岩場に幾ばくかの華を添えている。ただ、時期が早いので、まだツボミの個体も多い。
次第に、急斜面というものから、垂直に近い登りに変わって行く。ジグザグに切られた登山道を、クサリなどを使って昇っていく。
もっとも、さすが一般登山道と言うべきか、岩登りのスキルは不要。よく整備されている。
しかも複線化されているところさえある。これで混雑時には渋滞で往復1時間以上かかるというのだから、この山の人気ぶりが逆に理解できる。途中、頂上にいた人たちが降りてきたようだけど、すれ違うことは無かった。


登山道を独占状態で登る。
――本当にここは槍なのか? なんか、リアリティが無い。
ここまで7時間の登りはダテでは無く、さすがに本気で疲れている。時々止まっては喘ぐ。空気が薄くなっているので、なかなか息が整えられない。
ただ、息をつくために立ち止まって槍を背に座り込むと、眼前にはすこぶる良い眺望が広がっている。西鎌尾根、笠、穂高へと続く縦走路が一望のもと。息を継ぐのを忘れ、息を呑んでしまう――。
ちなみに、「ガスっていれば高さによる恐怖感が無いから登りやすい」と言う人がいるけど、そんなことは無い。この開放感があるからこそ楽しいのだ。……とは言えこれは人それぞれ。



いつのまにか、目の前にあるのが最後のハシゴになっていた。
取り付く。一気に駆け昇って山頂に飛び出したくなる衝動が沸いたものの、それを抑え、一段一段しっかりと踏みしめながら昇る。
頂上に出る手前、ハシゴに足を絡めて逆を向き、最後のひと時を楽しむ。自分が高所恐怖症でなくて良かった……。


AM10:23、槍ヶ岳山頂に到着。
――誰も居なかった。十人くらい集まると槍先から零れ落ちる心配をしなければならないけど、そんな心配は無用のようだ。
岩がゴツゴツして歩きにくい山頂部をぐるりと回る。いや、ぐるり、と言うほどの広さじゃ無い。
西方の眺めは今まで西鎌尾根で見ていたもの。東方の眺めも槍ノ肩で見られたもの。南方への眺めも大槍の登りで見た。初めて開けた展望は北方。北鎌尾根。




槍のてっぺんから見る光景は、正真正銘、360°の大・パノラマ。ガスこそ多いものの、6月としては立派なものだ。
残念ながら、今日の南方の視界は穂高岳まで。富士山を拝ませてくれなんていう贅沢は、とても言えない。
足の落ち着き場所が無い山頂で腰を落ち着け、お握りやパンをパクつく。お茶を飲んで、完全にくつろぎモード。装備軽量化のためストーブやガスカットリージは持ってこなかったけど、それも後悔は無い。
目の前の絶景を見ながら、何となくボーッと時間を過ごす。考えることはどうでもいいような、日常的なとりとめのないこと――。